典型的な話、の話

 典型的な話の真偽、ということについて書きます。

 

 一月ほど前、はてな匿名ダイアリー

低学歴と高学歴の世界の溝

という記事が、冷蔵庫炎上から「低学歴の世界」系話題の時流に乗ってHOTでした。これからしばらくが経ち、様々な反論もなされ、今は、「学歴という名で分類するからおかしいのだ、家庭環境などの問題ではないか」みたいな意見をチラホラ目にしますが、とりあえずその低学歴関係の話題には私は触れません。とりあげたいのは、この匿名ダイアリーに追記された

8/9 15:02 追記

30年前に地元を出た人の話ならわかるが、そうでないなら都会の人が想像で語った釣りでしょう。あるいは、30人中大学進学が1人とか超特殊な一族過ぎる。自説を開チンする時に経験談に仕立てるアレな類い。

っていうブクマがあったけど、俺30歳ですよ。

特殊な一族なのかなぁ。違うと思うけどなぁ。どうなんだろう。 

 って部分について。

 この記事に限らないのですが、ブログなどでこういう「分かりやすい話」や「よくできた話」が、その分かりやすさ故に人気になると、想像で書かれているとか、釣りだとか、レッテル・印象で語ってるとか言われることがしばしばあります。この匿名ダイアリーのトラックバック元である、

私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち

にも、そういうツッコミが入っています。(関係ないですがこの『私のいる世界』が私に「はてな界隈やっぱ面白いじゃん」と思わせてくれ、ブログ開設のきっかけとなっていますので感謝)

 他にも、例えばいじめについてとか、男女差についてであるとか、オタク論であるとか、その他諸々の話――体験談の体を取ったものが多い気がしますが――に、こんないかにもな話があるわけない、というコメントが来がちです。

 果たして、このような分かりやすい話、言い換えれば、タイトルである典型的な話は現実には存在しないのでしょうか。

 

 

 ところで、私の体験談を書きます。

 web上で非モテで面白かった人――非モテを直接売りにしてたにせよそうでないにせよ――が実生活でモテるようになるとつまらなくなってしまう、という意見を結構な頻度で目にします。基本的に嫉妬だよねーと私は思うのですが、この意見そのまんまって感じの例を見たことがあります。

 私がよくはてなダイアリーを見ていた、2007年前後の話です。

 当時、面白く読んでいたダイアラーさんがいました。特に非モテを売りにしていたわけではないのですが、しかし記事の端々からそのようなことは伝わってきました。しかしいつしか、何となくキレ味が落ちてきたなーと思っていましたら、恋人ができたということをサラっと書かれていました。それでもしばらくははてダを続けていたのですが、どんどん更新頻度は落ちていき、最終的に「今の恋人と知り合う契機となったのははてなダイアリーであり、ブログはいいものですが、もう記事を書いても充実感を得られないのでやめます」と言って閉鎖してしまった、ということがありました。

 思い返すと、いかにも、非モテに恋人ができて面白くなくなった典型例だなーという気がします。(本当にあの人に恋人ができたのか、そもそも非モテだったのか、ということは十分に疑えますが、今回はそこは捨ておきます。気になるようでしたら、「非モテというweb人格でいる人が、真偽はともかく恋人ができたという報告に前後して面白くなくなった典型例」と読みかえておいてください)

 ここからシンプルに言えそうなことは、典型例は実在しうる、ということです。立った一件の実例ですが、典型例は釣りであるという「白いカラスは存在しない」のような意見に反論するには、一羽の白いカラスを見せれば十分です。

 とは言ったものの。これはあくまで、たった一羽の白いカラス、たった一件の実例です。なので、これが普遍的なものなのかという問題があります。「全ての白いカラスの話は嘘である」を破るには十分ですが、「ネット上の典型的な話の多くは作り話である」=「ほとんどの白いカラスの話は嘘である」を破るには全然足りません。それを破るには、世界中の結構な割合のカラスは白いことを示さねばいけないでしょう。

 典型的な体験談に対して「釣りだろ」というコメントが寄せられるという状況。その背後にあるのは、「分かりやすい話は『全部』創作」という意識があるのか、それとも「『大体』創作」という傾向についての意識があるのか。そしてたとえ前者の極端な思い込みがあったとしても、典型的体験談は作り話が多いという現実がもしあるとしたら、とりあえず「釣りだろ」と言うことにはある程度の妥当性が生まれるのではないか。この辺になってくるともはやぐちゃぐちゃで、何が正しくて正しくないのか、指摘とはどのようにすべきか、ということが私には分からなくなってきます。

 ただ、ネット、ブログ、はてな、の記事について限って討論してみます。

 しばしば、ブログの記事は個人的な身の上話では終わりません。私はこういうものを見た、だから世の中にはそういう世界が存在するのだ、という大きな話になる。それは暗に、そういう世界が無視できない大きさと数で存在している、という主張になります。冒頭にあげた匿名ダイアリーの記事もそうで、政治家が対処すべきという内容で締められているということは、政治家が対処するに足る普遍的問題だというメッセージでしょう。果たしてそうか? その体験談の真実性、白いカラスが存在するのを信用したところで、白いカラスの数は無視できないほどに大きいのか?

 私がこの記事で白いカラスという言葉を使っていることで、体験談は特殊な例だという意味がこもってしまっているかもしれませんが、そういう意図ではありません。一つの体験談が、社会問題を端的に示しているということは大いにありえます。

 ただ、社会問題として語るには、やはり自分自身の体験談だけでは裏取りとしてあまりに弱いと思うのです。「こういうことがある」「いやない」「実際あった」「俺は見たことない」という水掛け論になってしまうでしょう。説得力を持って大きな物事を語るのであれば、何らかの裏付けがあるべきでしょう。

 とは言え、いちいちそんな裏付けとかせずに書ける気軽さがブログ・ネットのいいところでもありますし、統計的な裏付けなんか簡単にはできないし、そこまでするんだったら論文書くわってところでもある。私のこの記事自体、ネットで何回か見た、という個人的体験だけを基に大きい話を語ってるわけで、何をかいわんやって感じですね。

 ただとりあえず、なんかめんどくさい絡まれ方をしたくなかったら、個人的話は個人的な話に終始しといた方が安全ではあるんじゃねーの、って感じです。

 

 

 

 とかそれっぽくまとまった(つもりの)ところでなんですが、言いたいことは、もうひとつあります。

 それは、そもそも、典型例として挙げた私の体験談が、本当に典型例だったのか、ということ。

 意図的に嘘をついた気はしていません。私が見たものをそのまま書いたつもりでいます。しかし、私は、あの体験をした当時には既に典型例を知っていて、恐らく自分の体験を、自然とその典型に当てはまるよう適度に加工して認識していたはずです。そして今改めて回想し語るに際して、枝葉を落とし、曖昧になった部分に適当な内容を注入し、尚更典型例に近づけたのではないでしょうか。

 これは恐らく誰もがやっています。防ぐことはきっとできない。

 物を語る、ということについて考えたことのある人には今更な戒めではあるのでしょうけれど、他人の話をきく時にも、自分自身で語る・そもそも認識する際にも、たとえ経験者・語り手・聞き手が最大限誠実であったとしてなお、それぞれ理解しやすいストーリーに当て嵌めてしまっているということは忘れない方がいいのかもしれません。