穴を掘っている

 どういうわけかここ数日、Twitter経由で複数の方向から、ぐちぐち言わず創作活動に飛びこんでみようぜ!みたいな話題を目にします。はてな界隈で昔議論になった、「要は、勇気がないんでしょ?」案件と言えるかもしれません。

 今更このような話題ではてなに記事を書くのも馬鹿にされそうで怖いのですが、考えてしまったので書きます。

  とりあえず、Twitterで目に止まったその話題もとをいくつか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回は特に創作活動が焦点になっていましたが「要は、勇気がないんでしょ?」の時のような恋愛・人間関係分野や、或いは就職活動や企業、更には健康問題、その他諸々、色々なことにおいて、「まずは行動しろよ」という主張がブームになることは今まで何度もありました。自己啓発書でも似たようなことを書いてるものがあったような。

 そしてそれに、「何も考えず動いても心や自尊心が壊れる、気力は無尽蔵のリソースではない、シバキ上げだ」などという反論がネットで行われるのまで含めてサイクルだという気がします。

 私も心バギ折れ勢として、基本的には後者のスタンスに共感を覚えます。自分の心は自衛するべきです。

 けれども、けれども。

 現実として、行動しなければ何にもならないのは、圧倒的事実です。どこかで勇気を出さなければいけない。いつかは作品を書いてみて、人に見せなければ。いつかは人に声をかけなければ。いつかは履歴書を書かなければ。そうでなければ、止まって淀んで腐って果てるだけです。

 では、勇気の出しどころを考えるのが大事と言う話? いいえ、それを考えるのにも、考えるための情報を得るのにも、精神力や勇気が必要です。それも、決して僅かではない量が。

 

 

 私はクソネガティブなので(精神科やカウンセリングに五年以上通院しています。残念ながら病名がはっきりしませんが)、創作活動については以下のどれかだと思っています。

  • 強いメンタルや安定した環境を養えてきた人が創作を始め、叩かれて傷つきながらも上達する。
  • 凡人が創作を始め、上達するけどその過程で心が歪む。
  • 凡人が創作を始め、上達しないうちに心が壊れる。
  • 創作活動をしない。

 箇条書きするまでもないな……まあいいや。

 そしてこれは、創作に限らず人生のどんな場面でも似たようなことを言えるのじゃあないでしょうか?

 何をやったって、自分を含めた誰かからは批判をされるのだし、それを我慢して行動を続けていけば上手くなるかもしれないけれど、我慢の限界が来たら壊れるのです。

 遺伝やら幼少期の体験やらを通じて、十二分な心の健康さとそれを保っていける環境や人間関係を得られた人は、上手くやっていける可能性があります。必ず上手くやれる、あいつらは成功者だ、富める者だ、とは言いませんが、とりあえずまともにスタートラインには立てる。もしも、具体的な才能または能力まで備えられたなら、よかったですね、本当に。

 でも、そのような心の強さ、流行りの言葉で言うなら自己肯定感の類を持てなかった人間は、創作でも、就職でも、恋愛でも、友情でも、スポーツでも、心の平穏でも、何にチャレンジしても、辛い経験をする可能性の方が遥かに高いです。耐えきれないほど辛くて心が壊れることも決して少なくないと思います(私はネガティブなので悲観的な可能性を大きく見積もってるのかもですけど)。この場合、能力が多少あったところできっととても辛いでしょう。

 それでも無謀な奇跡に(賭ける勇気を絞り出せたなら)賭けるか、諦めて止まって淀んで腐って果てるか。

 上に引用したツイートにもありますが、幸か不幸か世の中は、上手く育ってそのまま成功した人、或いは賭けに奇跡的に成功した人の話を目にする機会がとても多いです。はてなではお馴染みであろう、生存者バイアス。

 だから、奇跡が割とありふれてるように見えますし、それに賭けようという決断は意外としやすいものです。でも私は、そんなの誤魔化されてるだけだって思います。ここでもネットの流行り言葉を使うなら人生のネタバレ、それを参照して考えるに、うまくいく可能性なんて惨憺たるものです。(本当は本当に、やってりゃなんとかなるのかもですけど。どうなんでしょうね)

 

 

 私は一種の運命論者、宿命論者なのかもしれません。

 遺伝と広義の環境、それが人間の人格を、意思を、全ての行動を決めてしまうと考えています。そして、遺伝や環境もまた、何か周囲や過去の影響で決まったもののはず。

 なんか話が大きすぎて胡散臭いな。

 貧困の連鎖なり、アダルトチルドレンや毒親育ちや機能不全家族なりの影響は物凄く大きい、くらいにしといたほうがいいかもしれません。

 何にせよ、最初の最初から自分で望んで生き辛い人格になった人間はいないはずです。「生き辛い自分の人格を変えよう」という気力がわかないほど生き辛い人格、になるなんて、私は望んでいませんでした。いや、中二病をこじらせて望んでいたかもしれませんが、それもまた周囲の影響と言えるはずです。

 けれど、そういう人格の責任は、その人自身に負わされます。自己決定でもないのに。生まれは選べないのに。環境(を選ぶ力を育む更に元となる環境)は選べないのに。でも、そういうものです。運命論や宿命論はあまり真っ当には取り上げられません、虚しくなるからでしょうか。

 

  

 今、生きるのが全面的に辛いと思ってる人は、よほどの幸運がなければそれは改善しないでしょう。

 たとえば、引き裂かれそうなほど愛を求めているのに、真っ当に愛されるような人格ではない人。愛されるために人格をよい方向に変えるには、よい人間関係が必要です。よい人間関係には、それを可能とする人格が必要です。その人格を得るには、恵まれた人間関係が必要です。そのためには人格が。

 どうしようもないループを破るには幸運が、幸いな運命が必要ですけれど、それに期待するのは余りに細い希望ではないでしょうか。少なくとも私は、自分が愛される未来が見えません。

 なんだってそうです。

 適度に褒めたり手を引っ張ったり成功体験と成長体験を積ませてくれるよき友って、きっと私みたい人間ではなくそういう仲間を作ることでしょう。辛い時支えてくれる家族や恋人がいたならば、「就活失敗して良かった」とも言えるでしょうが、いないから困っているんです。優れた治療者や薬と出会って「希死念慮と向き合う」ことができたならば、本当に幸運なことです。

 なんだってそうです。

 本当に幸運が必要です。でもそれは稀なものです。

 要するに、人生なんて絶望的なんです。

 物語にも歌詞にも黒歴史ノートにも書かれすぎて陳腐になってしまった言葉ですけれど、それでも、これは正しい。生きるのはクソゲー運ゲーで、晩回はひどく難しい。

 気付けていない人々はもっと絶望すべきです。しっかり、心から、みんな絶望すべきです。

 ちゃんと絶望できたなら、もう取るべき自己決定は一つでしょう。そうじゃないですか?

 

 

 なんてこと書いてるくせに、私は私の好きな人が消えようとした時にはそれを煽ることは多分できません。多分悲しいし、多分止めたくなってしまう。

 私も、一応、死にたくないです。無敵の人にもなれやしねえ。日和ったこと言ってすいません。

 誰か、うまいこといってないし今後もいけそうにない人たちを、できなければ私だけでも、幸せにしてください、どうか。

 

 

 

 

 つってまあ、こんなヘルプに応じようとするとグッズグズに依存されたりするんでしょうけどもー。ねー。あと宗教は有効そうだと思うんですが今んとこハマれてないですしハマりたくないです。やー、どうしたらいいんだろうなー。「俺はもうおしまい!!!ジャジャン!!」と書いた人は今どうしているのでしょうね。

 

 

 このようなことを考えていたら、マッチする曲をまさに21日にamazarashiが公開していたので、タイトルに拝借させていただきました。


amazarashi『穴を掘っている』“Digging Holes” - YouTube