天堂真矢の強さと孤独 / 少女☆歌劇 レヴュースタァライト ‐The LIVE‐#2 感想

 2019年7月に舞浜アンフィシアターで行われた、少女☆歌劇レヴュースタァライトのミュージカル#2再演、楽しうございました。

 ナマのきらめきを浴びたことで、あの物語での天堂真矢さんの行動について急に思考が回ったので、感想というか、妄想を交えた解釈を書いておきたいと思います。

 ちょうど本日、2019年7月18日の深夜に、首都圏のテレビで再放送されるアニメ3話にも絡むのでタイムリー。

 最終的には、真矢様好き……という結論にいたります。

 

 ということで以下、舞台スタァライト#2のネタバレをがっつり含みます。

 ただし再演のネタバレは含まないので、再演はBD待ちな方も読んでくださって大丈夫です。(言及された部分は再演で大きく変化していない、という意味でだけは再演ネタバレかもしれません)

 

 スタァライトを知らない人へ!

 少女☆歌劇レヴュースタァライトはは2017年から動いている、アニメと舞台ミュージカルの並行プロジェクト+その他メディアミックスです。演劇学校で、少女たちがトップスタァの座を巡って戦う話。

 今から見るのはハードル高いかと思いきや、2018年のアニメ全12話が事前知識いらないし恐ろしく出来がよく完成しているのでとりあえずそれを見るとよさそうです。私もアニメの6話から入りました。

 1話はYoutubeで無料公開中!


少女☆歌劇 レヴュースタァライト 第一話「舞台少女」

 

 

 

 

 

 

 


以下ネタバレ

 

 

 

続きを読む

小説もブログもゲームも途中で止めちゃうぼくに天使が降りてこない

 ぼくは小説書いたりブログ書いたりレビュー書いたり短歌詠んだりなりきり遊びをしたりゲームしたりそういうのを趣味にしてるわけですけど、どれもこれも途中で止めちゃうんですよ。どうしたらいいんですかね。

 文章書きで言うと、200字くらいで止まったネタはどうしようもないから仕方ない。問題は、書き始めて500字か1000字くらいでエンジンかかって楽しくなってきたはずの文章も、2000字程度で失速しがちなこと。あと肉体的にも疲れる。そんでまあ日を改めるわけですが、一度失速しちゃってるからもう一度とっかかるのが大変。数日くらい「やらなきゃなー、億劫だなー、でもなー」とグダグダしたあげく運よく再開できた時でも、遅々として進まない。総文字数5000文字以下くらいを想定してる場合は「短いから!(みじかくはない) 主ちゅうすればサッとしあげられるから!(サッとはできない)」と自分を叱咤してなんとか八割くらいまで進めたりもするんですけど、そのへんで投稿サイトで面白そうな募集企画がはじまったり、ネットの話題に物申したいことができたり、二次創作なら原作に刺激的な内容が出来たり、ゲームの期間限定アップデートが来たり、他にやりたいことができちゃって放り投げちゃう。

 いわば、セールに踊らされて「今買うと得!」と思って使いきれないほどのものを買う人みたいなもんです。流行や企画をおっかけて「これが盛り上がってるからこのネタは今のタイミングで書き上げて出した方が注目されやすくてアド得! これを逃したら折角完成させても労力が損! 今書き途中なのは手間取って既に旬とのシナジーなくなったから後回しでいいや!」とかセコいこと考えた挙句、結局どれも完成させられないんだからアド得もなにもねえっつーの。背中に二兎追うものは一兎も得ずって彫ってんのかぼくは。

 小説やブログだったらプロット書いたらいいんかなと思って、がんばってプロット/全体の設計図を書くようにしたこともあるんですが、「プロットどうりに機械的に書きゃいいんだしラクショーだぜ~!」と思ってたはずがやっぱ途中で進まなくなって投げちゃうの。誰もお前を愛さない。

 とは言っても、書き終えられたものはあるんですよ。このブログの過去記事なんかそうですし、一万字とか二万字とかの短編小説もいくつか書けたのでpixivにアップしてる(https://www.pixiv.net/member.php?id=23429)。だけどこれらが何故書けたのかが分からない。なんで? なんでうまくいったときとうまくいかないときがあるの? Twitter閉じたり音楽かけたりかけなかったり環境音きいたりテキストエディタ変えたりしてるけど影響は不明。

 あとゲームとかもそうで、最後までプレイできることが滅多にないんですよね。遊び始めたRPGがストーリーもシステムも面白いと思ってるのに、数日後には時間があるとストリートファイターVみたいな一戦一戦で終わる系のゲームをやるようになっちゃう。ところでスト5は12日から無料で遊べるのでみんなやってください、対戦ゲーだから文句は出やすいし初期ゴタついて評判イマイチだったことあるけど今は楽しいゲームです。→http://www.capcom.co.jp/game/content/streetfighter/info/4898

 この途中で投げだしちゃうのはどうやったらマシになるんだ。誰か……。

 あとこの記事は途中でめんどくさくならないようにネタも練らず推敲もせず書いたので読みづらいかもしれません。ごめんな。でもおかげで短いけど書き終えられたよ!!! やったーーーー!!!!!

【ネタバレ】少女☆歌劇レヴュースタァライトのTVアニメが凄くよかったので早口で感想を語る

 少女☆歌劇レヴュースタァライトのアニメがめちゃめちゃよかったウオオオ!
 最終話もよかったウオオオオオ!


 勢いで12話中心に全体の感想・解釈を書きなぐりました。熱量を感じてください。

(2019年1月追記:たまに少し情報の更新とかしてますが、基本的にアニメ12話を見た2018年9月の内容のままです。よってその後展開された情報とは違う部分もあるかも)

 

☆見てない人へ 

 完全ネタバレなので、まだ見てない人はぜひ見てきてくれよな!

 スタァライトは、舞台ミュージカルとアニメの並行プロジェクトです。両方あってハードル高いかと思いきや、私はアニメが六話くらいまで放送終わってから見始めたし、ほぼアニメしか見てないのに超盛り上がっているので、新規でも問題ないぜ!

 第一話は公式Youtube Chで常時無料公開中、二話目からは色んな配信サイトで配信されてます。

 個性の強いアニメだけに、いきなりついていけないと感じないためのポイントを2つだけ。

 1.この子たちの戦闘シーンは、現実的な武術の戦いというより、俳優力や思想や存在力を戦わせてることを比喩的に表現してると受け取ってください。(雑な説明なので、見続けているとあなたなりの戦闘シーンの解釈が生まれることでしょう)

 2.シリアスシーンなのに妙に笑えることもありますが、それはこのアニメが日常シーンでも舞台っぽい演出を入れているからです。ミュージカルが急に歌い出してポーズを決めたり、舞台出身俳優である藤原竜也の演技が慣れないとギャグに見えるのと似たようなものです。なので、無理にマジに受け取らずツッコミを入れつつ見ていればそのうちに脳が舞台っぽさに慣れて、笑いと感動を両方味わえるようになります、多分。

 


少女☆歌劇 レヴュースタァライト 第一話「舞台少女」

 

 

 では語っていきます。誤解とか間違いとか見つけた方は、ぜひコメントで教えてください。

 

 

 

 

 

 

 

以下ネタバレ

 

 

 

 

続きを読む

【ネタバレ感想】シン・ゴジラが怪獣物に疎くてもめちゃ面白かった

シン・ゴジラの物凄くネタバレな感想なので、読みたくない人は注意!

とりあえずめっちゃ面白かったです。 ゴジラとか小学生の頃にちょっと見たのと伊集院光深夜の馬鹿力で『ヘドラをやっつけろ』を聞いたっきりだしなー、怪獣物もよくわからんしなー、東京が壊されても地方在住じゃどこがどこやらだしー、という私でさえもめっちゃ面白かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きを読む

穴を掘っている

 どういうわけかここ数日、Twitter経由で複数の方向から、ぐちぐち言わず創作活動に飛びこんでみようぜ!みたいな話題を目にします。はてな界隈で昔議論になった、「要は、勇気がないんでしょ?」案件と言えるかもしれません。

 今更このような話題ではてなに記事を書くのも馬鹿にされそうで怖いのですが、考えてしまったので書きます。

  とりあえず、Twitterで目に止まったその話題もとをいくつか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回は特に創作活動が焦点になっていましたが「要は、勇気がないんでしょ?」の時のような恋愛・人間関係分野や、或いは就職活動や企業、更には健康問題、その他諸々、色々なことにおいて、「まずは行動しろよ」という主張がブームになることは今まで何度もありました。自己啓発書でも似たようなことを書いてるものがあったような。

 そしてそれに、「何も考えず動いても心や自尊心が壊れる、気力は無尽蔵のリソースではない、シバキ上げだ」などという反論がネットで行われるのまで含めてサイクルだという気がします。

 私も心バギ折れ勢として、基本的には後者のスタンスに共感を覚えます。自分の心は自衛するべきです。

 けれども、けれども。

 現実として、行動しなければ何にもならないのは、圧倒的事実です。どこかで勇気を出さなければいけない。いつかは作品を書いてみて、人に見せなければ。いつかは人に声をかけなければ。いつかは履歴書を書かなければ。そうでなければ、止まって淀んで腐って果てるだけです。

 では、勇気の出しどころを考えるのが大事と言う話? いいえ、それを考えるのにも、考えるための情報を得るのにも、精神力や勇気が必要です。それも、決して僅かではない量が。

 

 

 私はクソネガティブなので(精神科やカウンセリングに五年以上通院しています。残念ながら病名がはっきりしませんが)、創作活動については以下のどれかだと思っています。

  • 強いメンタルや安定した環境を養えてきた人が創作を始め、叩かれて傷つきながらも上達する。
  • 凡人が創作を始め、上達するけどその過程で心が歪む。
  • 凡人が創作を始め、上達しないうちに心が壊れる。
  • 創作活動をしない。

 箇条書きするまでもないな……まあいいや。

 そしてこれは、創作に限らず人生のどんな場面でも似たようなことを言えるのじゃあないでしょうか?

 何をやったって、自分を含めた誰かからは批判をされるのだし、それを我慢して行動を続けていけば上手くなるかもしれないけれど、我慢の限界が来たら壊れるのです。

 遺伝やら幼少期の体験やらを通じて、十二分な心の健康さとそれを保っていける環境や人間関係を得られた人は、上手くやっていける可能性があります。必ず上手くやれる、あいつらは成功者だ、富める者だ、とは言いませんが、とりあえずまともにスタートラインには立てる。もしも、具体的な才能または能力まで備えられたなら、よかったですね、本当に。

 でも、そのような心の強さ、流行りの言葉で言うなら自己肯定感の類を持てなかった人間は、創作でも、就職でも、恋愛でも、友情でも、スポーツでも、心の平穏でも、何にチャレンジしても、辛い経験をする可能性の方が遥かに高いです。耐えきれないほど辛くて心が壊れることも決して少なくないと思います(私はネガティブなので悲観的な可能性を大きく見積もってるのかもですけど)。この場合、能力が多少あったところできっととても辛いでしょう。

 それでも無謀な奇跡に(賭ける勇気を絞り出せたなら)賭けるか、諦めて止まって淀んで腐って果てるか。

 上に引用したツイートにもありますが、幸か不幸か世の中は、上手く育ってそのまま成功した人、或いは賭けに奇跡的に成功した人の話を目にする機会がとても多いです。はてなではお馴染みであろう、生存者バイアス。

 だから、奇跡が割とありふれてるように見えますし、それに賭けようという決断は意外としやすいものです。でも私は、そんなの誤魔化されてるだけだって思います。ここでもネットの流行り言葉を使うなら人生のネタバレ、それを参照して考えるに、うまくいく可能性なんて惨憺たるものです。(本当は本当に、やってりゃなんとかなるのかもですけど。どうなんでしょうね)

 

 

 私は一種の運命論者、宿命論者なのかもしれません。

 遺伝と広義の環境、それが人間の人格を、意思を、全ての行動を決めてしまうと考えています。そして、遺伝や環境もまた、何か周囲や過去の影響で決まったもののはず。

 なんか話が大きすぎて胡散臭いな。

 貧困の連鎖なり、アダルトチルドレンや毒親育ちや機能不全家族なりの影響は物凄く大きい、くらいにしといたほうがいいかもしれません。

 何にせよ、最初の最初から自分で望んで生き辛い人格になった人間はいないはずです。「生き辛い自分の人格を変えよう」という気力がわかないほど生き辛い人格、になるなんて、私は望んでいませんでした。いや、中二病をこじらせて望んでいたかもしれませんが、それもまた周囲の影響と言えるはずです。

 けれど、そういう人格の責任は、その人自身に負わされます。自己決定でもないのに。生まれは選べないのに。環境(を選ぶ力を育む更に元となる環境)は選べないのに。でも、そういうものです。運命論や宿命論はあまり真っ当には取り上げられません、虚しくなるからでしょうか。

 

  

 今、生きるのが全面的に辛いと思ってる人は、よほどの幸運がなければそれは改善しないでしょう。

 たとえば、引き裂かれそうなほど愛を求めているのに、真っ当に愛されるような人格ではない人。愛されるために人格をよい方向に変えるには、よい人間関係が必要です。よい人間関係には、それを可能とする人格が必要です。その人格を得るには、恵まれた人間関係が必要です。そのためには人格が。

 どうしようもないループを破るには幸運が、幸いな運命が必要ですけれど、それに期待するのは余りに細い希望ではないでしょうか。少なくとも私は、自分が愛される未来が見えません。

 なんだってそうです。

 適度に褒めたり手を引っ張ったり成功体験と成長体験を積ませてくれるよき友って、きっと私みたい人間ではなくそういう仲間を作ることでしょう。辛い時支えてくれる家族や恋人がいたならば、「就活失敗して良かった」とも言えるでしょうが、いないから困っているんです。優れた治療者や薬と出会って「希死念慮と向き合う」ことができたならば、本当に幸運なことです。

 なんだってそうです。

 本当に幸運が必要です。でもそれは稀なものです。

 要するに、人生なんて絶望的なんです。

 物語にも歌詞にも黒歴史ノートにも書かれすぎて陳腐になってしまった言葉ですけれど、それでも、これは正しい。生きるのはクソゲー運ゲーで、晩回はひどく難しい。

 気付けていない人々はもっと絶望すべきです。しっかり、心から、みんな絶望すべきです。

 ちゃんと絶望できたなら、もう取るべき自己決定は一つでしょう。そうじゃないですか?

 

 

 なんてこと書いてるくせに、私は私の好きな人が消えようとした時にはそれを煽ることは多分できません。多分悲しいし、多分止めたくなってしまう。

 私も、一応、死にたくないです。無敵の人にもなれやしねえ。日和ったこと言ってすいません。

 誰か、うまいこといってないし今後もいけそうにない人たちを、できなければ私だけでも、幸せにしてください、どうか。

 

 

 

 

 つってまあ、こんなヘルプに応じようとするとグッズグズに依存されたりするんでしょうけどもー。ねー。あと宗教は有効そうだと思うんですが今んとこハマれてないですしハマりたくないです。やー、どうしたらいいんだろうなー。「俺はもうおしまい!!!ジャジャン!!」と書いた人は今どうしているのでしょうね。

 

 

 このようなことを考えていたら、マッチする曲をまさに21日にamazarashiが公開していたので、タイトルに拝借させていただきました。


amazarashi『穴を掘っている』“Digging Holes” - YouTube

典型的な話、の話

 典型的な話の真偽、ということについて書きます。

 

 一月ほど前、はてな匿名ダイアリー

低学歴と高学歴の世界の溝

という記事が、冷蔵庫炎上から「低学歴の世界」系話題の時流に乗ってHOTでした。これからしばらくが経ち、様々な反論もなされ、今は、「学歴という名で分類するからおかしいのだ、家庭環境などの問題ではないか」みたいな意見をチラホラ目にしますが、とりあえずその低学歴関係の話題には私は触れません。とりあげたいのは、この匿名ダイアリーに追記された

8/9 15:02 追記

30年前に地元を出た人の話ならわかるが、そうでないなら都会の人が想像で語った釣りでしょう。あるいは、30人中大学進学が1人とか超特殊な一族過ぎる。自説を開チンする時に経験談に仕立てるアレな類い。

っていうブクマがあったけど、俺30歳ですよ。

特殊な一族なのかなぁ。違うと思うけどなぁ。どうなんだろう。 

 って部分について。

 この記事に限らないのですが、ブログなどでこういう「分かりやすい話」や「よくできた話」が、その分かりやすさ故に人気になると、想像で書かれているとか、釣りだとか、レッテル・印象で語ってるとか言われることがしばしばあります。この匿名ダイアリーのトラックバック元である、

私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち

にも、そういうツッコミが入っています。(関係ないですがこの『私のいる世界』が私に「はてな界隈やっぱ面白いじゃん」と思わせてくれ、ブログ開設のきっかけとなっていますので感謝)

 他にも、例えばいじめについてとか、男女差についてであるとか、オタク論であるとか、その他諸々の話――体験談の体を取ったものが多い気がしますが――に、こんないかにもな話があるわけない、というコメントが来がちです。

 果たして、このような分かりやすい話、言い換えれば、タイトルである典型的な話は現実には存在しないのでしょうか。

 

 

 ところで、私の体験談を書きます。

 web上で非モテで面白かった人――非モテを直接売りにしてたにせよそうでないにせよ――が実生活でモテるようになるとつまらなくなってしまう、という意見を結構な頻度で目にします。基本的に嫉妬だよねーと私は思うのですが、この意見そのまんまって感じの例を見たことがあります。

 私がよくはてなダイアリーを見ていた、2007年前後の話です。

 当時、面白く読んでいたダイアラーさんがいました。特に非モテを売りにしていたわけではないのですが、しかし記事の端々からそのようなことは伝わってきました。しかしいつしか、何となくキレ味が落ちてきたなーと思っていましたら、恋人ができたということをサラっと書かれていました。それでもしばらくははてダを続けていたのですが、どんどん更新頻度は落ちていき、最終的に「今の恋人と知り合う契機となったのははてなダイアリーであり、ブログはいいものですが、もう記事を書いても充実感を得られないのでやめます」と言って閉鎖してしまった、ということがありました。

 思い返すと、いかにも、非モテに恋人ができて面白くなくなった典型例だなーという気がします。(本当にあの人に恋人ができたのか、そもそも非モテだったのか、ということは十分に疑えますが、今回はそこは捨ておきます。気になるようでしたら、「非モテというweb人格でいる人が、真偽はともかく恋人ができたという報告に前後して面白くなくなった典型例」と読みかえておいてください)

 ここからシンプルに言えそうなことは、典型例は実在しうる、ということです。立った一件の実例ですが、典型例は釣りであるという「白いカラスは存在しない」のような意見に反論するには、一羽の白いカラスを見せれば十分です。

 とは言ったものの。これはあくまで、たった一羽の白いカラス、たった一件の実例です。なので、これが普遍的なものなのかという問題があります。「全ての白いカラスの話は嘘である」を破るには十分ですが、「ネット上の典型的な話の多くは作り話である」=「ほとんどの白いカラスの話は嘘である」を破るには全然足りません。それを破るには、世界中の結構な割合のカラスは白いことを示さねばいけないでしょう。

 典型的な体験談に対して「釣りだろ」というコメントが寄せられるという状況。その背後にあるのは、「分かりやすい話は『全部』創作」という意識があるのか、それとも「『大体』創作」という傾向についての意識があるのか。そしてたとえ前者の極端な思い込みがあったとしても、典型的体験談は作り話が多いという現実がもしあるとしたら、とりあえず「釣りだろ」と言うことにはある程度の妥当性が生まれるのではないか。この辺になってくるともはやぐちゃぐちゃで、何が正しくて正しくないのか、指摘とはどのようにすべきか、ということが私には分からなくなってきます。

 ただ、ネット、ブログ、はてな、の記事について限って討論してみます。

 しばしば、ブログの記事は個人的な身の上話では終わりません。私はこういうものを見た、だから世の中にはそういう世界が存在するのだ、という大きな話になる。それは暗に、そういう世界が無視できない大きさと数で存在している、という主張になります。冒頭にあげた匿名ダイアリーの記事もそうで、政治家が対処すべきという内容で締められているということは、政治家が対処するに足る普遍的問題だというメッセージでしょう。果たしてそうか? その体験談の真実性、白いカラスが存在するのを信用したところで、白いカラスの数は無視できないほどに大きいのか?

 私がこの記事で白いカラスという言葉を使っていることで、体験談は特殊な例だという意味がこもってしまっているかもしれませんが、そういう意図ではありません。一つの体験談が、社会問題を端的に示しているということは大いにありえます。

 ただ、社会問題として語るには、やはり自分自身の体験談だけでは裏取りとしてあまりに弱いと思うのです。「こういうことがある」「いやない」「実際あった」「俺は見たことない」という水掛け論になってしまうでしょう。説得力を持って大きな物事を語るのであれば、何らかの裏付けがあるべきでしょう。

 とは言え、いちいちそんな裏付けとかせずに書ける気軽さがブログ・ネットのいいところでもありますし、統計的な裏付けなんか簡単にはできないし、そこまでするんだったら論文書くわってところでもある。私のこの記事自体、ネットで何回か見た、という個人的体験だけを基に大きい話を語ってるわけで、何をかいわんやって感じですね。

 ただとりあえず、なんかめんどくさい絡まれ方をしたくなかったら、個人的話は個人的な話に終始しといた方が安全ではあるんじゃねーの、って感じです。

 

 

 

 とかそれっぽくまとまった(つもりの)ところでなんですが、言いたいことは、もうひとつあります。

 それは、そもそも、典型例として挙げた私の体験談が、本当に典型例だったのか、ということ。

 意図的に嘘をついた気はしていません。私が見たものをそのまま書いたつもりでいます。しかし、私は、あの体験をした当時には既に典型例を知っていて、恐らく自分の体験を、自然とその典型に当てはまるよう適度に加工して認識していたはずです。そして今改めて回想し語るに際して、枝葉を落とし、曖昧になった部分に適当な内容を注入し、尚更典型例に近づけたのではないでしょうか。

 これは恐らく誰もがやっています。防ぐことはきっとできない。

 物を語る、ということについて考えたことのある人には今更な戒めではあるのでしょうけれど、他人の話をきく時にも、自分自身で語る・そもそも認識する際にも、たとえ経験者・語り手・聞き手が最大限誠実であったとしてなお、それぞれ理解しやすいストーリーに当て嵌めてしまっているということは忘れない方がいいのかもしれません。

はてなブログ始めました

 高島津諦と申します。高島津が名字で諦が名前。川上稔風に読みを表記するとタカシマヅ・アキラ。諦はテイとも読めるので、語呂がいいようにタカテイと呼ばれることもあります。Twitterでのidもtakateiです。

 2005年前後にはてなを見ており、はてなアンテナを使ったり、はてブを熱心につけたり、時々はてダないしはてなグループの色々をしていたのですが、Twitterに入り浸ったり、pixiv自サイトで小説・短歌を作るようになってすっかり遠のいていました。が、最近の冷蔵庫侵入炎上案件とそれから派生した低学歴の世界(と名付けるのに賛否あるらしいですが)関連のはてなブログ記事がTwitterのTLに何度か流れてきて、読んでみたら面白かったのではてな熱が再燃、何やらダイアリーでなくブログという新サービスもできているようだし出戻ってみるか、と開設した次第です。

 HNが高島津諦なのに、はてなidがruna_wayで、このブログのURLがlost-momentsってクソめんどくせえですね。三面怪人ダダよりめんどくせえわ。idは以前のHNの名残です。ブログURLは、開設時に好きなURLを指定できるようなのではてなidに紐付けられず心機一転書けるのかと思いこれにしたんですが、実際はめっちゃ紐付いてて失敗したわーと思っているところです。一旦ブログ削除してはてなidに合わせたURLを取り直すことはできるんですが、URLにアンダーバーが入れられなくて完全には一致させられないみたいなので、このままでいいかなって……。逆にidや身元を完全に隠す手もありますが、id隠してidコールとかできなくなるのもなーっつーわけで、こういう形でやってみようと思います。

 生来の飽き性に加えて全然書きたいことや方針が決まっていなくて、十回以上更新が続いたらすげえやって具合ですけど、よろしくお願いいたします。